太陽の国の都の悲劇

――ブブノワ先生の住んだスフミ――

 世界の各地で武力を伴う民族紛争の火が鎮まらず、一日も早く解決の道がえられぬものかと気をもむ毎日だが、とりわけ旧ソ連のカフカースの南の国グルジアでのアブハジアとの武力紛争、アブハジアの首都スフミにおける最近のはげしい戦争は、かつてこの地を訪ねて多少ともこの国と民族を知る私には、他人ごととは思えぬ胸いたむ出来事である。

 実は知る人も多いと思うが、このスフミの町こそは今は亡きブブノワ先生が、日本を去ったのちにその晩年を令妹アンナさんと共に20年を過ごし親しまれた町なのだ。また私がこの国この町を知るのも、機会があって幸いにも先生のお元気なときにこの町を二度訪ねることがあったからである。

 アブハジアというのは「アブハス人の国」という意味で、ロシア語ではザカフカースという、つまり名高い大カフカース山脈の向こう側(ロシア側からみて)の地方の国の一つ―グルジア共和国の(最近までは)一部であった。その面積は、グルジアが日本のおよそ五分の一、アブハジアはそのまた約八分の一、日本の山梨県のほぼ二倍の国土の小国。しかも海岸線に連なる山地である。

 人口は五十数万にすぎず、アバハス人の国とは称するものの、アブハス人―七万七千人、グルジア人―二十万人、ロシア人―九万三千人、アルメニア人―七万五千人―その他という(1977年統計)民族構成の多民族国家なのだ。黒海沿岸の亜熱帯性気候の多湿の風土の地で、しかも年間晴天日数220日という「太陽の国」である。前世期末にすでに国際的に呼吸器系疾患に最適の保養地のひとつと公認されていたとものの本にある。その首都スフミは人口14ー5万の小都で、風光明媚の湾内の古い歴史をもつ港町でもあって観光客が多い。夏は実に暑い。

 民族構成も複雑だが、その歴史も随分と複雑で、例の中世の有名なタタール・モンゴールの征服にも遭い、トルコの支配も受けたのち、19世紀になって帝政ロシアに帰属した。ロシア革命後十年ほどアブハジア共和国として存在したが、1931年にグルジア共和国の自治共和国となって今日に至った。国の公用語はロシア語、グルジア語、アブハズ語の3ヶ国語で、公的な印刷物、掲示等はすべてこの3ヶ国語で記されていた。アブハス語という言語は、ロシア語とは全く別系統の、北西カフカース諸語の一つだが、文字はロシア語のそれと同じキリール文字を基本としたアルファベットを採用している。この民族出身の作家に、民族性豊かで、しかも深い人間性に根ざす良質の作品をロシア語で書いている優れた作家―イスカンデールがいる。スフミ生まれのこのイスカンデールの風貌に私はアブハス人の典型を見ている。ちなみに、イスカンデールはブブノワ先生を識っており、のちに実に心に沁みる思い出を綴ってもいる。

 さて母国へ帰られたブブノワ先生がこの南国の町に住んだのは、令姉マリアさんが住んでいて住居が確保できたからのようだが、見事な椰子の大樹の街路樹のめだつじつに緑の豊かな地中海風のこの海浜の小都会が、日本の次に気にいっていたのである。竹が生い茂り、柿が実る風土、蒸し暑い夏も日本に似ていたからであろう。

 ここスフミにあって先生がその画業の実績を認められ、国の功労画家として遇されたのは当然のことで、この地で晩年を飾る旺盛な制作がつずけられ、個展も幾度も開かれて、高い評価を受けたのだった。また天性の教育者の資質と人柄によって、おのずと絵画の弟子が集まった。民族の別等を問わず人をその才能と人柄によってのみ見た先生だったから、その弟子、知友の中にはロシア人、アブハス人、グルジア人、アルメニア人ばかりか、ユダヤ系、トルコ系、タタール系などとさまざまな民族の人がいた。

 こうした絵の弟子の一人にラヴィーリャさんという中年の女性がいた。この国の多民族性の見本例のようなもので、自身はタタール人、亡くなった夫君はその姓の頭に「ムハメード」の付くチュルク系。一人息子は長じて大学のジャーナリスト科を出たのちドイツ娘と結婚したという具合。ラヴィーリャさんはスフミの街の観光土産店で売られる細密画風の絵柄を描き入れたブローチ類を制作して生計を立てていたのだが、一方でブブノワ先生に絵を見てもらい、国の美術家同盟員となるべく、再三展覧会にも出品して懸命の努力をしていた(これは後日その努力の甲斐あって成功した)。先生の住まいのごく近くに住んでいて、先生を実の親のようにも慕い敬い、なにかと世話を焼いてもいた。

 そんな人柄の人だったから、私などともスフミをたずねたときにその息子ともども忽ち親しくなり、のちには子連れでモスクワへ出てきては私のアパートに泊まるようにもなった。私がモスクワ生活を了えて帰国したのちも、私がモスクワを訪ねた折にわざわざスフミからいろいろな土産をもって会いに出てきたこともある。息子の自慢話をきいてほしかったのである。その後も音信絶えず、息子がドイツ娘と結婚したうえドイツへ行ってしまったこと、孫が産まれたこと、ドイツまで出掛けて行ったが、向こうの親元と親しめず早々にスフミに戻ったことなど知らされた。細密画の作品も贈ってくれた。

 ところがこの旧臘、思いがけぬ悲報が届いた。このラヴィーリャさんがスフミ市内で戦火の犠牲になったのだ。詳報がえられぬままに想像するのだが、あの伝えられるシュワルナゼ・グルジア最高会議議長が督戦のためみずからスフミに乗りこんだものの、優勢なアブハジア軍の反撃に抗しがたく、からくもヘリで脱出してトビリシに逃げかえったという抗争事変のどさくさにまきこまれたものらしい。じつになんとも言いようのない傷ましいことだ。ひたすら一人息子の幸せを願って生きて働いた貧しい一人の寡婦の命がこんなふうにして断たれてしまったのである。

 スフミに長く住んだブブノワ先生は令妹アンナさんが亡くなったあと、生れ故郷のペテルブルグに移り、養女のヴェーラさんと一緒に暮らし、ちょうど10年前に亡くなった。その遺骨は運ばれてこのスフミの、海をのぞむ丘の墓地に令姉妹と共に眠っている。つい昨日まで一家の家族のように睦みあった人々が、民族が、愚かにもそれぞれに他国の軍隊の支援をえて戦い殺しあういまのおぞましい姿を目にしないで済んだことをしあわせと思うべきか。墓地はいまどんな有様であろうか。

浅川彰三(1956年卒)
(《Вести》第2号 1994年4月9日発行 所収)

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