ドストエフスキーの「神話」

主にロラン・バルトの用法に依拠しつつ、ここで用いる「神話」という語を「公共性のある物語」と定義しておきたい。例えば「オイデプス」、「シンデレラ」といった言葉は「父親殺し」、「劇的な出世」など、何らかの物語を想起させるものであり、実際にこれらの言葉は、その想起される物語を前提にして社会的に流通している。つまり、社会的に流通する物語というものが存在するのである。

 よく知られた古典文学作品は、当然「社会的に流通する物語」の典型的なものである。我が国でドストエフスキーの文学が広く流通しているという事実は、ドストエフスキーの創作した物語が日本人の間で「神話」として定着しており、コミュニケーションに大きく貢献しているということを意味する。
 現代日本におけるドストエフスキーの「神話」について、その具体的な姿を明らかにするべく、1990年代の大手新聞に掲載された記事の中からドストエフスキーについて論じたものを分析した結果、おおむね以下のような結果が得られた。

 1 まず「ドストエフスキー」といえば「ロシアの暗部を描いた物語」が想起され易い。さらには「ロシア」よりももっと広い枠組をとって、「近現代社会の諸問題に警告を発する寓話」として想起されることも非常に多い。

 2 先述の事柄に通じるものではあるが、ドストエフスキーの「神話」は多くの場合、古今の犯罪事件と絡めて言及される。そもそもドストエフスキーの文学自体が好んで犯罪事件を題材にする傾向をもっているので、「犯罪」はドストエフスキーを研究する上
での重大な要素であると言える。

 3 これは論者が1および2から導き出したものであるが、ドストエフスキーの「神話」は「近代人のジレンマ」という神話と密接な関係がある。すなわちニーチェやオルテガ・イ・ガセットなどによって指摘された「凡俗で閉塞的な近現代社会」という世界観に立脚し、犯罪者などの「アウトサイダー」を呪われた社会の仇花的存在として捉える。

 1,2,3は以下のようにまとめられるであろう。まずドストエフスキーが描いた帝政ロシア社会というのは、近代合理主義によって伝統的な美徳が失われ、病的で歪んだ環境であった。この時代に発生した異常な犯罪事件は、その如実な反映である。

犯罪者たちは恵まれた潜在能力をもちながらも、それを有為に活用することができず、不毛な犯罪で自滅してしまった、ある意味で社会の犠牲者である。帝政ロシアを舞台にしたこれらの陰惨な物語は、近現代社会全体に通用する寓話となっている。―これがドストエフスキーの「神話」の主要な骨子である。ドストエフスキーは帝政ロシアのための処方箋としてキリストを提示しており、キリストの教えを受け入れることによってロシアの再生と輝かしい未来がもたらされることを期待している。実はこの期待自体が、楽園喪失、堕落を経て死と再生、救済へと到るという、キリスト教的世界観に立脚している。

 我が国で流通しているドストエフスキーの「神話」では、この処方箋の部分がしばしば黙殺される傾向がある。おそらく多くの日本人にとって、ロシアの輝かしい未来、およびその余徳としての世界的救済というのは、あまり魅力的な未来像ではないのであろう。

桜井 厚二(学部1995年卒 修士1997年入学)
(2002年7月13日 於 文学部34号館451教室)

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