ワルワーラ・ブブノワ先生ゆかりの地、ベルノボ案内記

 今年(1999年)6月6日はプーシュキン生誕200周年記念日にあたり、ロシヤ各地のプーシュキンゆかりの地で、盛大な記念行事が開催されるだろう。戦前、戦後の早稲田露文科で講師として教鞭をとられたワルワーラ・ブブノワ先生の母方、ブリフ家の館があったベルノボでもこの屋敷がプーシュキン記念館として復興されているため、何らかの形で記念行事が開かれるに違いない。(ブブノワ先生といっても若い卒業生にとってはよく知られない伝説的存在と思うが、先生は日本で先進的画家として、またロシヤ文学の日本への紹介者として、日本文化の発展に大きな貢献を果たされた。また妹のアンナ女史は日本で本格的なバイオリン教育を実践し、彼女なしには日本のバイオリンの今日の水準はありえなかった、といわれている。ブブノワ姉妹のこうした功績については、米国に住む国際政治学者、長谷川毅教授が中央公論今年1月号で“ブブノワ姉妹と北方領土”と題して詳細に論じているので参照願いたい)

 このベルノボのブリフ家の館はトベーリ市の西、約120kmにあり、18-19世紀の典型的な貴族屋敷の面影を残している。残虐な農奴制度の上に成り立っていたとはいえ、草深い田舎にあって、こうした貴族がロシアの文化を支え発展させてきたこと、広大なロシヤの地方を旅することがいかに困難なことかを実感するためにも、是非この地を訪れることをお薦めする。ただ、比較的モスクワから近いといっても、車の利用が不可欠で途中1泊も必要なため、モスクワでレンタカーを借りれば可能となる。私は1996年6月、永年の夢であったこの小旅行を実現したので、下記レポートしたい。旅のガイドとしてお役に立てれば幸いである。
 
 ブブノワ姉妹の母、アンナ・ドミートリエブナ・ブルフ/ブブノワはトベーリ地方の名門貴族、ブリフ家に生まれ、屋敷のあるベルノボで育ち、後ペテルスブルグで声楽を勉強、ドミートリイ・ブブノフと結婚し、マリヤ(ピアニスト)、ワルワーラ(画家)、アンナ(バイオリニスト)を育てた。三人姉妹は幼年時代、夏休みをここベルノボで過ごすことを楽しみとし、プーシュキンも滞在したこともあるというこの館を誇りにしていた。
プーシュキンはミハイロフソコエ村(プスコフ市近郊)での幽閉時代、隣村トリゴルスコエ村の女地主、プラスコビヤ・アレクサンドロブナ・オシポワと親交を持っていた。彼女は最初の結婚相手であったブリフとの間に1男、2女を持ち、これらの子女はブリフ姓を名乗っていた。プーシュキンはこれらの人たちと交際するほか、他のブリフ家の人たちとも知り合い、ブリフ家の本拠地であるトベーリ地方にあるベルノボ、マリニキ、パブロフスコエの村を3回も訪問、滞在した。これらの村はペテルスブルグ―モスクワの街道沿いにあるとはいえ、その短い生涯でよくも3回も訪ねたものである。
 
 私はこれまでここを訪れたいと漠然と考えていたが、コジェブニコワ女史のブブノワ伝記より、ここがモスクワより意外に近いところ、すなわちトベーリ市(ソ連時代にはカリーニン市と呼ばれ、外人立ち入り禁止区域だったが、その手前のザビードボには外人向け保養所があり、しばしば滞在したことがある)から西にそれたところにあり、1泊2日で十分往復できると判断し、宿泊はこのザビードボの保養所に予約して、この小旅行を実現することにした。
1996年6月初めの暑い朝、ロシヤ人の妻とその友人3人で9時過ぎ車でモスクワのレニングラード街道沿いに出発した。途中チャイコフスキーの屋敷で知られるクリンを通過する。更にこの街道を走行してボルガ川の鉄橋を超えると(モスクワより約120km地点)もうトベーリの町は近くなる。町の手前で左折し、スターリツア方面に向かう。道は森と原野が交錯する中、ひたすら真っ直ぐ伸びており、行けども行けども村落はない。モスクワ―ペテルスブルグ街道では村落が次々に現れるが、こうして田舎道に入ると極端に村落が少なくなるわけだ。プーシュキンの時代の旅の困難さが改めて感じさせられる。文明の利器である日本製の自動車に感謝しつつ、左折地点より約75km走って、やっとスターリツアの町に着いた。この町は非常に古い町で、14-16世紀に建てられた砦跡や教会が町の中央を流れる川の両岸に残っている。ゆっくり見物すれば面白いと思ったが。なにせベルノボまではまだ40kmもある。町を通過するだけにした。
 
 再び原野をひた走るが、途中村落は殆ど無く、40kmを走ってやっとベルノボ村に着いた。モスクワを出発して、約5時間後に着いたこととなる。馬車や橇で旅行するなら1日半か2日はかかるのではないか。村は小さなものであっという間に村を通過してしまったが、ムゼイの見当をつける。道路より左手に少し坂を登って行くと、深い林があり、その中に堂々たる館がかいま見える。これがブリフ家のベルノボ邸で、かってプーシュキンが滞在したことにちなみ、ベルノボ・プーシュキン記念館となっている。
 
 小さな木戸を入っていくと、右手に3階建ての館が見える。この館の中心部より菩提樹の並木が左手正面に伸びており、その先に丸い池がある。屋敷の庭は広大で、緑濃い大木が生い茂っている。この池より館に向かって菩提樹の並木道を戻ると、館より左に遊歩道があり、これは“パルナス”と呼ばれる丘に導く。プーシュキンが好んで散歩したといわれている。庭の樹木は鬱蒼と生い茂っているが、殆ど手入れしていないためであろう、歩道のまわりには夏草が生い茂り、何となくもの淋しい思いがする。
現在ある館は3階建て、外観は往時を偲ばす立派な建物である。建設された当時は、30もの部屋があったと言われているが、現在は母屋を残すのみ、横に連なっていた建物は老朽化し、取り壊されたらしい。館への入り口は菩提樹に対する面と反対側にあり、私達が入って時は暗く、誰もいなかった。それでも留守番役の若い研究者が現れ、各部屋を案内してくれた。
 
 この建物は18世紀末、ブブノワ先生の曽祖父、イワン・ペトロービッチ・ブリフの時代に建てられた。プーシュキンは1828、1829、1833年と計 3回ここを訪れている。プーシュキンが滞在した時のベルノボ当主は、イワン・ペトロ―ビッチの息子、イワン・イワノビッチで、1815年、郡を退役しここに住んでいた。プーシュキンが泊まった部屋は、2回の中心部にある客間で、ここから菩提樹の並木道が望まれ、その先の丸い池も見える。記念館のこの部屋のみは、当時の客間を再現しようと古い家具が置かれている。ブブノワ先生の祖父、ニコライ・イワノビッチは当時14歳の少年だったが、この客間に足を踏み入れ、“ベッドに横たわって何かを書いていたプーシュキンを見た、これは1828年のことだった、この話は神話として家族のなかで口伝えで伝承され、第3世代たる私達まで伝わった”と、ブブノワ先生は書いている。(当記念館で貰ったパンフレットによる)
 
 記念館の他の部屋は、ブルフ家の歴史を物語る資料、写真が展示されているが、家具などは散逸したため、当時の部屋の様子は十分再現できないでいる。それでも多少ここに置かれている家具などは、ベルノボのみならず、マリニキ、パブロフスコエなど他のブリフ家の屋敷にあったものを持ってきたと言われている。 2階の奥まった1室は、ワルワーラ・ブブノワ先生の作品展示室となっている。先生の晩年の姿を寫したと思われる彫像が机の上に置かれ、壁には先生の日本時代の版画やスフミ時代の晩年の作品が展示されている。また日本で発行された童話本の挿し絵も展示されていた。
 
 私達が訪れたとき、他に訪れる人はなく、記念館は全く閑散としていた。この記念館は1976年にオープンしたが、当時は社会主義の時代であっても、トベーリなどよりバスで来る団体客、小学生などの団体があったが、ソ連崩壊後はこうした団体客は全く来なくなり、訪問客は本当に年に数えるほどだ、と案内してくれた女性研究者は嘆いていた。
この館は他の貴族屋敷と同様に、革命後ボリシェビキ政府によって接収され、病院とか小学校として利用されてきたらしい。他のこの種の建物と同様、この屋敷も荒れ果てていたらしいが、プーシュキン研究者の熱意により1970年代、プーシュキン記念館として復興することが決まり、ワルワーラ・ブブノワ先生も存命中で部屋や家具の配置について相談を受けたと聞いている。
 
 上記のマリニキ、パブロフスコエはブリフ家の分割された領地で、ベルノボと隣接しているが、建物は消滅して今は何も残っていない。ただマリニキには庭園の一部と並木通りなどが残っているとのことだが、今回の訪問では時間がなく、この庭園跡には立ち寄れなかった。

 この旅行では2日間に750kmを走るというかなりハードな旅となった。ベルノボを訪ねた後、更に北上してトルジョーク市を通過してレニングラード街道に出、モスクワ方面に戻る形でトベーリを迂回してザビードボ村に入り、そこの外人保養所に宿泊した。翌日はトベーリ市に立ち寄ったが、その中心部には 18-19世紀の町並みがよく残っており、ボルガ川にかかる橋の付近から眺めた町の景観は、どこかペテルスブルグのネワ河畔を想い起こさせる。ベルノボ訪問の際は、スターリツア、トルジョーク、トベーリを併せ見学することをお薦めする。

岩月慎二郎(学部1958年卒 修士1959年入学)
(《Вести》第1号 1994年4月9日発行 所収)
 

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