交錯するジャンル

 プーシキンの創作における傾向の一つに、ジャンルの混交が挙げられる。物語詩として通常扱われる『青銅の騎士』(1833)は、「前書き」と「原注」という散文テクストと、「序」と第一部・二部という韻文テクストの二つに分かれている構成であり、詩人のジャンル意識がむき出しになっているかのような作品である。

 ポエマ(物語詩)で書かれている第一部・二部において見られる形象としては、ネヴァ川の荒波、洪水、嵐、それらに囲まれるエヴゲーニー、荒波に浮かぶ小船が挙げられ、これらはホラチウスの伝統を受け継いでおり、ロシアにおけるオードの一要素としての歴史を持っている。また、秋という季節はエレジー的な要素であり、プレロマン主義特有のオッシアン的な陰鬱な夜は、ロシアにおけるエレジーの一要素となっている。第一部・二部にはオード的な要素とエレジー的な要素が混在しており、この点において同じ年に書かれた詩「秋(断章)」と共通していると考えられる。「秋(断章)」は全12連で構成され、最終連のみ1 行、他は8行構成である。韻律は6脚ヤンブであり、押韻構成は厳密なオクターヴの形式である。内容はエレジー的であり、生から死へ移行する時期としての秋がテーマになっており、四季について語られた後、最終連が再生・新生(始動)の力を持つのである。

 ホラチウス・オード的、古典主義的な要素と、バイロニズム、ロマン主義的な要素が微妙に混在している詩として「秋(断章)」(1833)が挙げられると私は考える。この詩におけるホラチウス的なオードの伝統を用いたヴァリアントの存在は、「苦難:荒海 対峙する人:舟(船)」というテーマが構想されてもいたことの可能性を強める。詩人が1833年にホラチウスのオード(第1詩集、第1オード)の翻訳をしていることもホラチウスを意識している一つの証左となるであろう。最初の構想では、第11連の「船」はホラチウス的な要素の強い「舟」であったと考える余地は十分にある。韻律の関係上、челн ではなく、корабл に変更したのではないか。そうなれば、当初の最終連からは、わきでる詩想と戦いながら、新しい叙情詩の世界を作り上げていこうとする詩人の思いが伝わってくる。ロシア文学の改革を成し遂げてきたプーシキンの人生は、まさに文学的苦闘の日々だったのだから。

 そして、第12連の草稿では、最終的には削除されてしまったが、バイロニズムを思わせる世界遍歴のテーマが見られる。それは、バイロンが物語詩という形式を用いて語った世界である。それを、プーシキンは叙情詩の世界に持ち込もうとしたが、適応させることができなかったのではなかろうか。何よりも、この時期にはすでに詩人にとってバイロニズムはパロディの対象になっていたことを考えると、この草稿段階における最終連はさらに興味深いものとなる。詩想が世界各地にあふれていくという意味であろうが、その背景には船で世界遍歴をするというバイロン的志向が見て取れるのである。

 『青銅の騎士』は、叙情詩とは異なるポエマというジャンルでありながら、ホラチウスの伝統を受け継いでいるオードの要素と秋やオッシアン的な風景というエレジー的要素がうまく溶け込んでいる作品である。一方、「秋(断章)」は、エレジー的なオクターヴ形式の叙情詩であるにも関わらず、ポエマの作り上げてきたテーマである世界遍歴を取り込もうとしながらも、最終稿では「船は行く。いずこにわれわれは 船脚を向けるべきか?・・・・・・」で終わっている。『青銅の騎士』では、「嵐」に打ち砕かれた「対峙する人:エヴゲーニー」は最後、遺骸となって発見され、「再生・新生」は見られない。ポエマの形式を用いて、徹底したリアリズムを志向したからだと考えられる。同じ年に書かれ、「秋」というエレジー的要素や「海上の船」という形象を共通に持ちながら、叙情詩の一種であるエレジーは、語彙、文体レベルにおいて散文的表現を許しながらも、進むべき道を決めかねているようでもある、あたかも叙情詩の限界を感じながら。

鈴木 健司(博士後期課程)
(《Вести》第17号 2001年12月24日発行 所収)

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