インタビュー1・大島幹雄さん「サーカスと私」

1979年卒業生 大島幹雄さん

今日は私がなぜサーカスに入り、そこでどういうことをしてきたかというお話をしたいと思います。

 なぜ私がサーカスとつきあうようになったかと言いますと、結論から言えば大学院に落ちたからです。二文にいた時に講義でロシア・アバンギャルドを知り、ショックを受けました。ロシア語ができなかったのでマヤコフスキー学院で1年間ロシア語をやり、そして学士入学というかたちで露文に入学しました。卒業はしましたが、3月の院試に落ちてしまった。それでもアバンギャルドを中心に勉強したい。自分が好きでさえあれば続けて勉強はできるだろうが、それよりもまず飯を食わなきゃならない。いまと同様、

当時も就職難で就職先が見つからない。ところが新聞の就職欄の3行ぐらいの小さな広告で、ソ連のサーカス団を呼ぶ会社が人を募集していました。面接に行って入社、そこで9年働きました。
 入社して2ヶ月後、初めての出張で新潟に行くと、空港でクマがタラップを降りてくるのを見てまずびっくりしました。私はクマの調教師の助手の助手ということになったのですが、てっきり2日位で帰ってこられると思い、小さなバッグしか持っていませんでした。ところがいきなり拉致されたみたいに、まったく訳のわからないままクマのトラックに乗れと言われ、結局3ヶ月間サーカス団とともに日本を旅しました。「なんや?」という世界でした。その年は「ボリショイ舞台サーカス」というタイトルで、当時の日劇で最初の公演をし、全国40都市くらい回りました。新潟に行った5人のアルバイト仲間は、つらい仕事でトンヅラして、3日目には私以外残っていませんでした。そのようにしてサーカスと出会い(無理矢理出会わされた?)、はや17年になりました。

 仕事はとてもきついものでした。まる一日拘束されての肉体労働。最初は痩せてきてふらふらでしたが、人間は環境に慣れるもので、だんだん逞しくなって来る。クマの助手の助手としての最大の使命は、「餌を買ってくること」です。私はその頃ロシア語は「ダー、ニェット」ぐらいしか知りませんでしたが、クマの餌の単語は覚えなければならないので、アピールキ(おがくず)といったような人もあまり知らないような単語は得意になり、そうこうしているうちにロシア語がしゃべれるようになってきました。

 私は旅が好きで、また非日常的なことが好きなハレ人間ですので、ただで旅行ができ、変化に富むサーカスの生活にはまっていきました。ダローシキという細長く、クマのおしっこと人の汗の染み込んだ臭い絨毯の上で真剣に芸をする人々を見て、非常に面白い世界だと思うようになり、横浜の港からクマを帰すときには、悲しくなって涙が出ました。

 9年間あらゆる仕事をしました。いま述べましたほかに、切符売りや、やくざっぽい興業主との交渉があったり、規模の大きなサーカスの総監督もしました。
 1000人ちかくの芸人と仕事をしたでしょう。

 そのなかでも忘れられないのは、カルニーロフという図体のでかい、リガ生まれの象の調教師が日本に象を連れてやってきたときのことです。日本では象を運ぶのはとてもやっかいなことです。まずそれだけの重量を積めるトレーラーが日本には無く、高さ制限もあります。そこで彼がトレーラーと国際免許証を持ってくることになっていましたが、そのトレーラーは第一次世界大戦で使われたような、古くて通る人がみんな振りかえるようなとんでもない代物でした。

横浜に彼と象が着き、これを運ぶことになりましたが、本人は免許証の方を忘れてきていました。でも運ばなきゃならないんで、法律違反でもいいから後楽園まで運んでしまえということになりました。トレーラーのタイヤがどうもおかしいのですが、彼に聞いてもニチェヴォーと答えるばかりです。後楽園に着くすぐ手前のところでエンストが起きました。調教師がヒスを起こしてタイヤとかを蹴っ飛ばすとまたエンジンがかかる。繊細な象がそこから下ろす寸前になって「パオー」とほえだす。冬の後楽園は大騒ぎです。象を下ろし終えたところで先ほどのタイヤの心棒が折れてしまい、もし乗っていたらと思うとゾォーとしました。またあるときは、彼に象のトレーラーに招かれ、スピリットという99%アルコールのどぶろくを2杯飲んですっかり酩酊し、すべていいなりに──象が食べないはずの日本酒とか、ビールとかそんなのまで──餌を決めてしまったことがあります。このような話は数限りなくあります。

 ある日、ロシア語専門の本屋でラザレンコという道化師のロシア語の伝記を見つけ、早速その日から読み出しました。革命時代にアバンギャルドの連中と、サーカスと演劇とを結びつけたムーブメントがあったのですが、ラザレンコはサーカス側から参加した重要な人物です。自分にとっても、大学時代に学んだアバンギャルドとサーカスとを結びつける重要な人物だと思われ、資料を集め、伝記の作者に手紙を書いたところ、すぐに返事が来て、そこにはモスクワへ来いとある。経済的な事情もあり、結局その1年後に彼に会うためだけにモスクワへ行きました。その時の1週間はいまでも自分の財産になっています。ラザレンコという道化師を軸に、発表の当てもなく原稿を書き始めましたが、たまたま尾崎先生と芝居を見に行く仕事があり、先生に見ていただいたところ、先生の編集する『悲劇喜劇』という雑誌に連載が決まり、さらに浦さんを通じて平凡社の編集者の目に留まり、加筆して1990年に『サーカスと革命ーー道化師ラザレンコの生涯』(平凡社)という1冊目の本が出来ました。これは、ラザレンコを通してアバンギャルドとサーカスを結びつけることができ、気持ちの上で一区切りつけることになった意義深い本でした。そして今度は本格的にサーカスの事をやってみようかと思いました。

 モスクワへ行ったときに集めた資料のなかに、日本人芸人についてのものがあり、それがとても気になって、ロシアに渡ったサーカス芸人ということを地方紙に書いたところ、ドイツで、日本人芸人を見たという手紙をもらいまして、この手紙がきっかけになって、2冊目の『海を渡ったサーカス芸人ーーコスモポリタン沢田豊の生涯』(平凡社)という本が出来ました。これはいまから90年ぐらい前に日本を出て、ドイツでなくなった沢田豊さんという日本人芸人の話です。とても心の暖まるいい話です。沢田豊さんに出会うことによって次のテーマが見つかりました。サーカスを通じて私は沢田豊さんと出会いましたが、彼が伝えたかった沢山の思いが私を呼び寄せて本を書かせたのだと思っています。歴史のなかで表舞台に登場することのなかった人の思いを、伝えてあげようという気持ちで書いたし、これからもそうした人間を追いかけ、書いてもいきたいと思っています。

 いまは200年前にロシアに漂流した仙台の漂流民のことを調べています。彼らは大黒屋光太夫が日本に帰国した年にロシアに漂流し、7年間イルクーツクで暮らし、世界を一周させられて長崎にレザーノフに連れられて帰ってきました。
 現在かれらの評価は低く、知識のない漁民とされていますが、僕の故郷の人たちでもあり、それが気に入らなくて、実際は違うのではないかと思い調査をしました。

 レザーノフの辞書と日記というものがありまして、それがペテルブルグの東洋学研究所にあると聞き、昨年の6月に行ったら、200年前の辞書を見せてくれました。ゴンザの辞書と比べても遜色ないものであるとわかりました。それは仙台漂流民の協力なしには出来なかったものですし、またその語彙をみてもかなり知識の高い人たちであったということがわかります。これも伝えられなかった思いを伝えたいという私の気持ちがさせたのでしょう。

 『モスクワで粛清された日本人』という加藤哲郎氏の本があり、その中にヤマサキキヨシという日本人の名があって、加藤氏に手紙で教えを請うたところ、KGBの調書などの資料を送ってくださいました。まだ『点』は『線』にまではなっていません。
 サーカスは私の皮膚の一部です。サーカスをつうじて2人の日本人の生き方を知って、それを文字にしたい、日本とロシアの架け橋になりたいと、いま思っています。

(《Вести》第5号 1995年11月1日発行 所収)

1 RESPONSES TO インタビュー1・大島幹雄さん「サーカスと私」

  1. 押野見 栄治 2010年8月19日 at 3:33 PM

    私は1995年英文科卒業して、ひょんなことから日本のサーカスの立ち上げにかかわり、
    10年間、設営スタッフ及び演者として全国を旅しておりました。どちらかというと、ロシアの方は少なく、中国や南米の方の多いサーカスでした。今は東京にもどり5年間サーカスとはまったく縁のない仕事に就いておりましたが、大島さんの文を拝見し、とても懐かしく感じています.

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