ツルゲーネフの物語詩『対話』≪Разговор≫ (1845)

物語詩『対話』の主人公は、「老人」と「若者」の二人である。「老人」は世捨て人を装いながら、自らの人生に対する追憶を捨て去ることができず、岩屋の中でひとり苦悩の日々を過ごしている。一方、「若者」は人生の意味を見いだすことができず、心の空虚さに苦しみ、自分自身や人生に対する不平不満を抱いている。ある夜そのような二人が出会い、お互いこころに秘めた感情をうち明けることになる。

ベリンスキーはこの作品について、「二人はそれぞれ、〈・・・〉世代の代表」であり、ここには「現実と同時代を特徴付ける思想がある。〈・・・〉 現代を生きる者すべてが我々の時代の病を理解するであろう」(下線は引用者.以下同様)と述べ、「社会性」という観点から評価した。以後、この評価が、『対話』の正統的な評価となっている。

二人の主人公の会話は、相手の話や問いに受け答える形で始まり、まさしく〈対話〉を成している。詩の形式上も、行を途中で切ることにより、二人の〈対話〉にリズムをもたらしている。しかしいつしか二人の〈対話〉は、〈ダイアローグ〉ではなく、どちらも相手の同意や反駁などまるで念頭に置かない〈モノローグ〉となって行く。文体上でも、アクセントのない一人称単数〈Я〉が多用され、自分の生活や人生の悲哀を自分自身へ確認する度合いが強くなればなるほどこの〈Я〉の頻度が増し、まるで自身との内なる〈対話〉という様相を呈する。このことは、これまでの研究で看過されてきた点であり、作品解釈において解明すべき重要な点である。

その手がかりとして、『対話』刊行直後に発表した「ヴロンチエンコ訳ゲーテ『ファウスト』評」の中に注目すべき記述を見いだすことができる。この評論の中でツルゲーネフは、「ファウストもメフィストフェレスも、ゲーテその人である」と解釈している。この解釈に基づくと、「老人」と「若者」それぞれの〈Я〉は作者ツルゲーネフ自身の〈Я〉としてとらえることができ、内なる〈対話〉という構図も容易に理解できる。このことを論証するものとして、ゲルシェンゾンの次のような指摘に留意したい。「『対話』は滔々たる訴えであり、ツルゲーネフの個人的な訴えである。〈・・・〉ツルゲーネフは自分の〈病〉を入念に観察し、分析しているのだ」として、作者と作品の密接な結びつきを見ている。このように、作品の表層における「世代」や「時代の病」とは異なり、深層では自らのこころの〈病〉をめぐって作者ツルゲーネフの内なる〈対話〉が展開されていると考えることができる。

R・フリーボンは、二人の人物を用いた対比が「ハムレット」と「ドン・キホーテ」という明確な「二つのタイプの比較へ」と発展して行くことを指摘している。周知のように、ツルゲーネフは『ハムレットとドン・キホーテ』(1860)の中で、「人間という一本の同じ軸の両極に位置する二つのタイプ」として、「ハムレット」と「ドン・キホーテ」を提示している。1847年12月13日付ヴィアルドー夫人宛て書簡にその構想を見ることができるが、着想はさらにそれ以前と考えられ、柴田治三郎も「ツルゲーネフの文学論について」(1955)という小論の中で、「ツルゲーネフはこの二つのタイプの性格に早くから興味をもっていて、〈・・・〉『對話』がすでにかような二人の人間の對話」であることを見ている。

主人公の二人が苦悩を抱くようになった起因は、同じく個人的な〈恋愛〉であることを基に考えるならば、二世代という二本の座標軸も、実は一本の座標軸となり、その両極に二つの〈Я〉が配置されている構図としてとらえることができる。このように読み直すことにより、他の作品においても、時代や社会的背景に左右されることのないツルゲーネフ作品の〈芸術性〉を新たに見いだすことができるのではないだろうか。

佐藤 清一郎(博士後期課程5年)
(《Вести》第20号 2003年6月1日発行 所収)

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