上田敏とアンドレーエフ

 上田敏は日本で初めてアンドレーエフ作品の翻訳を行った人物である。発表の早い順に挙げれば『芸苑』巻第1、第2(明治39年1月1日、2月1日発行)に連載された「旅行 Петькана」、『趣味』第2巻第5号(明治40年5月1日発行)の「これはもと Жили-были」、『新小説』第14年第1巻(明治42年1月1日発行)の「クサカ Кусака」、『中央公論』第24年第5号(明治42年5月1日発行)に「恐怖」のタイトルで掲載された「沈黙 Молчание」「里子 Валя」、そして「これはもと」「旅行」「クサカ」も収録して春陽堂から出版された『心』(明治42年6月15日発行)の標題作である「心 Мысль」となり、計6篇ということになる。そして『心』の出版直後、明治42年7月15日発行の『無名通信』第7号に掲載された批判記事に始まり、同月25日及び27日付けの『読売新聞』の擁護記事、翌28日付けの「上田敏氏の誤譯を上げた人は、中沢臨川氏だらうと想像する人もあるやうだが、事實昇曙夢氏であるさうだ」という記事を挟んで8月1日、2日付け『読売新聞』の敏自身による反論、さらに翌3日の『読売新聞』、8月15日号『無名通信』の再反論へと発展したのがいわゆる「誤訳論争」である。
 
 敏の翻訳はフランス語訳からの重訳であり、その定本はド・ヴィゼワ Teodor de Wyzewa とペルスキー Serge Persky による1903年に出版された短篇集『L’Epoivante(恐怖)』及び1908年の短篇集であると推定できるが、このフランス語訳自体にすでに、ロシア語原文にはない語句の挿入や省略がかなり存在している。例えば「沈黙」の最終行は、原文では「И молчал весь темный  опустевший дом.」であり、原文直訳によった蔵原惟人訳では「そして荒廃した家全体が沈黙した」であるが、フランス語訳は「Et ce silence lugubre renait aussi du haut en bas de la sombre maison vide.」となっており、完全な逸脱とはいえないまでも、原文とは印象の異なる訳文となっている。結果、この箇所に関してはフランス語訳に忠実である敏の訳文は、「悽愴たる沈黙は寂しいこの家の上下を領した」となる。また「思想」は、フランス語訳において、原文には存在するエピローグを欠き、第4の手記の終わりから第5の手記の始めにかけて入り組んだ異同を示す。大幅な欠落は「沈黙」でも見られるが、いずれの場合も敏の訳は完全にフランス語訳と一致しており、ここまでの点では敏の翻訳にみられるロシア語原文との差異はもっぱらその原因をフランス語訳に求めることができる。
 
 他方、ロシア語からフランス語へ翻訳される際には精確に訳されているにもかかわらず、フランス語から日本語に訳される段階で、敏によって少なからぬ変更が加えられている箇所も容易に見出すことができる。この場合、敏の翻訳文章の特徴の一つは、会話文に先行する地の文において、ことごとく動詞が省略され、句点ではなく読点を用いてそのまま次の会話文に引き継ぐという形態であり、もう一つは、とにかく文章の頭から順に訳出し、句読点に関してはかなり自由な裁量の下、適当なところで句点を置くというものである。この場合、文の語彙、前後の脈略は大きく変えられていない一方で、従属節や長い修飾節が本来とは違う箇所に関係することになるが、前述の例が翻訳が重訳であること自体、つまり敏には無関係に生じる現象であったのに対して、この例は明らかに敏自身の意図に基因したものである。 
 
 敏の翻訳が「誤訳」かどうかは置くとしても、ロシア語原文との比較において、それがいわゆる精確な翻訳でないことは動かしがたい事実である。そしてそこには大きく二つの要因が考えられるわけであるが、他にも敏が例外的に「レオニダス・アンドレイエフ」という表記を用いていることなど、上田敏とアンドレーエフという一見関係の薄そうな両者の関わりについても、まだ検討する問題は多いといえる。      

塚原 孝(博士後期課程5年)
2003年7月5日 於 文学部39号館第4会議室

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