ワレーリヤ・ナールビコワの手法

ワレーリヤ・ナールビコワは1958年モスクワ生まれの作家で、88年に雑誌『ユーナスチ』に、『昼の星と夜の星、光の均衡』を発表しデビューした。その後96年の『そして旅』まで短篇を中心に発表を続けていた。
 
 1980年代よりロシアでは女性作家たちの活躍が顕著になり、とりわけ、タチヤナ・トルスタヤ、リュドミラ・ペトルシェフスカヤ、そしてワレーリヤ・ナールビコワの3人は、作風も文体も異なりながらも「女性文学のトロイカ」として注目を浴びた。トルスタヤ、ペトルシェフスカヤが、性的描写を避け、女性作家と呼ばれることを毛嫌いしていたのに対し、ナールビコワは、男女関係、特に性的な三角関係をテーマに、エロティックな作品を手がけている。デビュー作『昼の星と夜の星』が発表される際には、アンドレイ・ビートフによる序文が添えられ、その中でビートフは、ナールビコワの文体はまるで息づかいのようであり、「意識の流れ」の織物であると述べている。この言葉は、その後のナールビコワの創作に一貫して当てはまる。
 
 このようなナールビコワの創作の特徴を把握するためにもっとも適していると思われる作品が『План первого лица. И второго』(『一人称のプラン、と二人称の』)である。
 この作品は、主人公イラと恋人ドドストエフスキイ、その友人トエスチルストイの奇妙な同棲生活の物語となっており、三角関係、イラとトエスチルストイの結婚、ドドストエフスキイによるトエスチルストイの殺害、そしてその死体を煮込んで二人で食べる、という筋なのだが、ほとんどは三角関係に起因する心理関係のやりとりの描写となっており、プロットと言えるほどのものはないと言えるだろう。
 
 ビートフの言う、ナールビコワのテクストの「意識の流れ」とはつまり、この三角関係に基づく主人公の意識=知覚の流れであり、彼女の作品は、プロットの連鎖によってではなく、主人公の主観的な知覚によって顕在化されていく。ナールビコワは、作品の空間の中に多くの乗り物を持ち込むことで主人公の身体感覚や心理状態を表現したり、主人公を裸にしたままだったりというような手法を用いて、剥き出しの意識を常に打ち出していく。
 こうした知覚の顕在化によるテクストの身体性は、エロスとの関連性、文体の特異性にあるのだと言われている。独特の文体については、作家自身がみずからの創作の目的を「エロスを言葉に昇華すること、言葉そのものをエロティックにすること、文体そのものを性行為に似せること」と述べているように、性行為をポルノグラフィックに描くのではなく、言葉に性行為を行わせる、つまり、言葉そのものに性行為可能な身体性を負わせるということではないだろうか。
 
 こうした実験的な試みは、批評家クーリツィンから「成功とは言えない」と指摘されたものの、また「必要な失敗であり評価すべきものである」とされ、ナールビコワ研究の多くも、こうした身体性に基づく特異な文体を検討することにあてられている。しかしこれらの研究での「身体性」とは単に身体感覚が前面に押し出されているというような意味で用いられているきらいがあり、その定義には揺れがあるようにも感じる。
 ナールビコワ的な身体性をさらに追っていくならば、そのプロットとの関係性をも念頭に置く必要があるだろう。徹底的に文体を変形することでプロットには亀裂が生じており、読者はかなりの労力を強いられるのだが、テクストそのものが壊れてしまわないのは、先にも述べた「主人公の意識」が、まさに読者にとっての乗り物であるかのように進んでいくからなのだ。三人称の語りの中を途切れることなく走る主人公の意識によって、われわれはテクストに繋ぎ止められている。
 
 こうした手法は、現代のロシア文学においては決してナールビコワ一人のものではなく、ほかの作家にも見られるものである。ロシアの現代文学を検討する場合に、知覚の問題や身体性、プロットや文体の崩壊といった現象を軸に考察することは重要なことであろう。96年以降は執筆を行っていないナールビコワであるが(そもそも彼女は画家)、わずか十年足らずの間に発表された作品だけでも、さらに検討の必要はあると考えている。

ライター 高柳聡子(博士後期課程2年)
2004年6月19日 於 文学部露文専修室

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