『アンナ・カレーニナ』の食事考

露文のOBで、早稲田大学ロシア文学会の会員、竹野憲司様より、「もう一つの『アンナ・カレーニナ』の読み方」をご寄稿いただきました。商社マンとしてロシアでお仕事をされていた時のおはなしを、写真と共にお届けします。写真撮影の規則も厳しく、必要以外の写真はなかなか撮れなかった時代。お寄せいただいた写真は、1980年代半ばに撮影されたものです。

 

もう一つの『アンナ・カレーニナ』の読み方
竹野憲司
(1967年露文卒・元商社員)

 

毎年、3月の末に手にする冊子がある。「ロシア文化研究」である。早稲田大学ロシア文学会が編集・発行しているものだが、その巻末に「卒業論文・修士論文・博士論文 題目一覧」というページがある。いつも興味を持って目を通すようにしているのだが、2016年の3月に手にした冊子(*1)の2015年度の論文題目一覧の中に「ソ連時代の食文化研究」というのがあった。日ソ貿易の黎明期からその終焉まで、ソ連の極東地域やモスクワを這いずり回った日々の思い出を捲ってみても、「まずい!!」という記憶しかない「ソ連時代の食べ物」を卒業論文に仕立て上げた学生がいたのには、驚きを越えて唖然としてしまった。「あのまずさをどのように食文化として捉えたのか?」と不思議に思ったのだが、「まずくても、そのまずさゆえにまずいという食文化もありかな?」とも考えて見た。しかし、それは、ソ連時代の食べ物(料理)を食べたことのない若い学生に無理な話である。

では、「ソ連時代の食文化研究」とは、ソ連時代の食のどこに視点を当てた研究なのか、と日に日に興味が湧いてきて、「学生の卒業論文の閲覧は可能か?」と大学に問い合わせたてみた。大学の関係者には迅速な対応を頂いたが、「入社したばかりで毎日研修に追われて、手一杯の状態で卒論を読んで頂くことは難しい」という論文執筆者の返事を添えて、卒論の指導教員から「卒論の内容開示、情報提供はあくまでも執筆者の意志によるものですので、ご了承いただければ幸いです」という丁寧なメールをいただいた。入社時の社員研修がどのようなものであるかを知らないわけではないので、大学の関係者および卒論の指導教員と論文執筆者の協力に謝意を伝えて、本件の手仕舞いをした。

 

ホテルウクライナとコメコンビル

ホテルウクライナとコメコンビル

 

ところが、このことが契機となって、ソ連時代の食(料理)のことがしきりと脳裡に浮かぶようになった。ソ連貿易の黎明期、モスクワの定宿は、ウクライナ・ホテル(現Radisson Royal Hotel)であった。ホテルの名の通り、ホテル内のレストランは、ウクライナ料理であったが、何を食べても味がなくて、「味気がないとはこういうことか?」と思いながら、空腹を満たすためにだけ食べていたのだが、いつの間にか口に合いそうなものだけを注文するようになった。その料理が、キエフ風ボルシチ、ジャガイモのサラダ(Capital salad)とキエフ風カツレツ(鶏肉)だと言えば、「何だ、旨そうじゃないか?」と言う人もいるだろう。また「蓼食う虫も好き好き」だから、そう言う人もいるだろうが、それは、ソ連の滞在期間が、一週間以内の短期出張者だけの話である。

当時は、ソ連への入国ビザの取得が困難だったため、滞在目的の仕事が終わってもビザの期間が残っておれば、駐在員の補助を命じられ、ビザ期限のぎりぎりまでモスクワに残らねばならなかった。従い、一回の出張期間が短くて一ヶ月、さらに滞在中にビザ期間の延長を試み、成功すれば、また一ヶ月と滞在が長くなる。このようにして、モスクワの滞在が長くなると、毎日の食の問題が、最大の悩みとなる。それは、自分だけの問題ではなく、駐在員をも含めた問題であり、暇さえあれば、食の情報交換に夢中になる。

例えば、「どこそこの料理がいけそうだ」と言えば、「今度、そこへ行って見よう」となり、「でも、どこで食べても味が同じだ」と茶々が入れば、「では、何故、同じなのか? それはゴスト(国家規格)料理だからである。つまり、各々の料理に使う調味料の量がゴストによってグラム単位で決められており、ソ連中のレストランがゴスト通りに料理を作るから、どこで食べても味はみな同じなのである」と即座に解説を始める輩がいる。

すると、「いや、今の話、本当臭いけど、どこかの公団(貿易公社)で聞いて来たアネクドート(小話)じゃないの?」と言いながらも、このゴスト説には、「説得力があるなぁ!」と肯き合い、「だから、まずいのだ!」と満場一致、みんな、納得。そして、その日の食談義はお開きになる。

 

国立歴史博物館、ゴーリキー通り付近の人なみ

国立歴史博物館、ゴーリキー通り付近の人なみ

 

また、ある時は、「帝政ロシア時代は生牡蠣を食っていたのに、なんで、今のモスクワには生牡蠣を食わせるレストランがないのか?」と誰かが溜息をついていたら、「ねぇ、君、生ガキをザクースカに使うのは、この僕がやらせたんだよ。ウォトカで咽喉が燃えるように熱くなっているところへ、生ガキをのみこむと、咽喉のあたりに何ともいわれぬ快さを感ずるものね。そうだろう?(*2)」と自称食通さんが芝居の口調で突っ込んでくる。

「おい、突然、何だよ? 役者ぶって、誰のセリフか知らないが、一体、どこで、そんなセリフを見つけてきたんだ?」「ばれたか? 実は、チェーホフさんのお言葉でした」と素直に白状する。「そうか、チェーホフの言葉ねぇ、でも、桜の園に生牡蠣を食ったとか、そんなセリフはないだろう」「おい、桜の園だけかよ? チェーホフと言えばだねぇ……」「まあ、まあ、それで、モスクワのどこで食ったとか、レストランの名前とかは、チェーホフさん、書いてなかったのかね?」「書いてないねぇ!」「そうか、それは残念だが、そのウォトカを呷った後の生牡蠣を丸呑みするやつは、一度試してみたいねぇ! ここにもウォトカは腐るほどあるが、しかし、生牡蠣がなぁ!」と口を閉ざす。

すると「あっ、そうだ!」と中老格の駐在員が手を叩く。「アンナ・カレーニナ、誰か持っていないか?」「おい、チェーホフ、お前、トルストイは読まないのか?」「勿論、読みます。本もありますよ。この前、カリーニン大通りの本屋で戦争と平和と一緒にアンナ・カレーニナを買ったばかりです」「よし、そいつを持って来い。あれには、オブ……なんとかいうのが、どこかのレストランで生牡蠣を食っていただろう、そのレストランの名前をちょっと調べてみようじゃないか?」「今からですか?」「いや、今日は、チキン・ラーメンを食って、そいつは次の機会にしよう!」となって、貴重なラーメンが一気に消費される。カップ・ラーメンが、この世に登場する少し前のことである。

 

赤の広場の竹野さん(86年冬)

赤の広場の竹野さん(86年冬)

 

モスクワから帰国して、先輩たちの食談義に興味が湧いて、書棚から「アンナ・カレーニア」の翻訳本(*3)を抜き出し、読み始めた。そして、幸いにも、あの先輩が言った「オブ……なんとか」が、生牡蠣を食べたレストランは、第一篇の三分の一も読み進まないうちに見つかった。

この時オブロンスキイが、帽子を横っちょにかぶり、眼はいうに及ばず、顔まで輝かしながら、陽気な征服者然として動物園に入ってきた。
そして、オブロンスキイがレーヴィンを食事に誘う。
「『イギリス亭』か、それとも『エルミタージュ』か?」
「僕はどっちでもいいよ」
「じゃ、『イギリス亭』だ」とオブロンスキイがいった。彼が『イギリス亭』を選んだのは、『エルミタージュ』よりそこのほうに借りが多かったからで、そのために『エルミタージュ』にしては悪いと思ったのである。「君、辻馬車を待たしてるかい? いや、けっこう、僕は箱馬車を帰したのでね」

 

モスクワの先輩たちは、次のオブロンスキイの言葉に唾を呑み込み、「ひらめ!」と絶叫したことだろう。

 

オブロンスキイは道々メニューを考えていた。
「君、ひらめは好きかい?」
「なんだって?」とレーヴィンは問い返した。
「ひらめ? ああ、僕はひらめがとっても好きだよ」

 

オブロンスキイとレーヴィンが、肩を並べてホテルに入る。「イギリス亭」は、ホテルの中にあるレストランのようだ。ホテルに入ると、オブロンスキイは、食堂を通り、ブフェに近づき、小魚でウォートカを一杯のむ(レーヴィンは、オブロンスキイが声をかけたフランス女が癪に触り、ウォートカを飲まなかった)。しかし、これには、モスクワの先輩たちは、見向きもしないだろう。それは、ニシンの塩漬けと茹でジャガイモでウォトカをいつでも飲めるからだ。さて、特別くっついてきた年寄りのダッタン人が、二人をテーブルへ案内する。ああ、モスクワの先輩たちは、一字一句も逃さずに読んだことだろう。

 

宴の後(ナショナル・スタッフと、85年)

宴の後(ナショナル・スタッフと、85年)

 

 

老ボーイはビロード張りの椅子を引き寄せ、手にナプキンとメニューを持って、オブロンスキイの前に立ち、命を待っていた。
「……牡蠣は新しいのが入りましてございます」
「ああ! 牡蠣か」
オブロンスキイは考え込んだ。
「ひとつプランを変えるかな、レーヴィン?」メニューの上に指をのせたまま、彼はそういった。その顔は真剣に迷っているような表情になった。「牡蠣は上等かい? おい、大丈夫か?」
「フレンスブルグのでございます。御前さま、オステンドのはございません」
「フレンスブルグはフレンスブルグにしても、新しいかい?」
「昨日はいりましたので」
「じゃ、どうだね、牡蠣からはじめて、そのあとでもうすっかりプランを変えるかな、え?」
「僕はどうだって同じだよ。僕はシチイ(玉菜汁)とカーシャ(粥)が一番いいのだが、ここには、そんなものはないだろう」
「カーシャ(粥)なら、ア・ラ・リュス(ロシア風)はいかがでございます?」まるで赤ん坊にむかう保姆のように、レーヴィンの上にかがみこみながら、ダッタン人はこういった。
「いや、冗談はさておいて、君の選ぶものでいいよ。僕はスケートで駆けまわったので、腹がへちゃった。どうか思い違いをしないでくれ」オブロンスキイの顔に不満げな表情を認めて、彼はこうつけたした。「僕は君の選択に敬愛を表さないわけじゃないんだから、僕は喜んで、なんでもよくたべるよ」
「もちろんさ! なんといったって、これは人生の快楽の一つだからな」とオブロンスキイはいった。

 

モスクワの先輩たちが、「そうだ! そうだ! オブロンスキイ、よくぞいった。食は人生の快楽の一つだ!」と肯き合っている姿が目に浮かんでくる。

 

「じゃ、おまえ、牡蠣を二十もってきてくれ、いや、それとも少ないかな――三十だ。それから野菜スープと」
「プランタニエールでごさいますな」とダッタン人はひきとった。しかし、どうやらオブロンスキイは、彼にフランス語で料理の名前をいう満足を許したくないらしかった。
「野菜の根入りだぞ、わかった? そのあとは濃いソースのかかったひらめ、それから……ローストビーフ。だが、いいか、上等のだぞ。それからカプルン(去勢雛)にするかな、そして缶詰のくだもの」

 

「ああ、先輩、味はともかく野菜スープとコンポート(缶詰の果物)だけだね、ウクライナ・ホテルのレストランでも食べられるのは……」と同情する。

 

レーヴィンは牡蠣も食べたが、チーズをつけた白パンのほうが気持ちよかった。それよりむしろ、彼はオブロンスキイに見とれていた……「君はあまり牡蠣が好きじゃないのかい?」とオブロンスキイは盃を干しながらいった。「それとも、何か気にかかることでもあるのかね? え?」

 

う~ん、オブロンスキイの胃袋は、一体全体、どういう構造になっているのだ! 牡蠣にしても、他の料理にしても、注文のし過ぎじゃないの、と嫌味の一つくらい言いたくなるほどだ。しかし、そう思いながらも、帝政ロシア時代の牡蠣は、フレンスブルグとオステンドから来ていたのか、と感心する。どちらも架空の地名ではなく実在する港町である。フレンスブルグは、ドイツの北の端、デンマークとの国境付近にある港町で、ユトレヒト半島に食い込み、入江はバルト海に面している。一方、オステンド(オーステンデ)はベルギーの北海に面した港町である。また、イギリスへ向けてフェリーが就航していることでも有名な港町である。

 

モスクワ河、コメコンビル、ホワイトハウス

モスクワ河、コメコンビル、ホワイトハウス

 

 

ここまで読めば、ひとまずは、「アンナ・カレーニナ」を読む目的を果たしたことになる。また、モスクワの先輩たちはこの先を読まなかっただろうと思ったが、もう少し読み進めることにする。

 

食事を特別よくしようとしたアガーフィヤと、料理人の努力の結果は、ただ空腹をかかえた二人の友が、前菜のテーブルのそばに坐りこんで、バタつきパンと、鳥の燻製と、塩漬けの茸をたらふく食べたのと、それから料理人がかくべつお客様をびっくりさせようと、腕によりをかけた肉饅頭ぬきでスープを出せと、レーヴィンがいいつけただけのことであった。しかし、オブロンスキイイは、もっと違った食事に慣れているにもかかわらず、薬草入りの酒も、パンも、バタも、ことに鳥の燻製も、茸も、いらくさのスープも、ことごとくすてきだといった。白ソースをかけたチキンも、クリミヤの白葡萄酒も、なにもかもすてきで、山海の珍味であった。

 

ああ、もう、オブロンスキイは、食に関してはダボハゼ同様の御仁のようだ。でも、出されたものは全部平らげる、その精神だけは見上げたものである。

 

赤の広場の写真屋さん

赤の広場の写真屋さん

 

次は、キチイの保養のためにトイツの鉱泉場に行ったシチェルバーツキイ一家が滞在している自分の家に知人をコーヒーに招待して、昼食をした時の献立である。

 

白いテーブル・クロスをかけ、コーヒー沸し、パン、バタ、チーズ、野禽の冷肉などを並べたテーブルのそばには、薄紫色のリボンのついたレース帽をかぶった公爵夫人が、無数の輪になってふるえる木の葉の影を受けて、お茶やサンドウィッチを配っていた。

 

そして、公爵は、上機嫌で、宿泊先の主人を相手に、「こっけいなブロークンのドイツ語で冗談をいいながら、キチイを癒したのは、鉱泉ではなくて、彼のつくるすばらしい料理、ことに黒すもも入りのスープだ、と主張するのであった。」

ここで余談だが、「世界で一番多く話されている言葉は何語か?」とあるパーティーの席での雑談中に聞かれたことがある。ちょっと考えて、「英語だろう!」と答えたら、「近いが違う。正しくは、ブロークン・イングリッシュだ」と言って、相手がニヤリとしたのを思い出した。「ブロークンのドイツ語」は、一体全体、どのくらい話されているのだろうか?

 

 

市内の花屋さん

市内の花屋さん

 

さて、オブロンスキイは、「宴会に出るのも好きであったが、自宅で宴会を催すのはもっと好きであった」という。そして、ある夜の宴会のメニュー(彼も大いに気に入ってた)は、生きた鱸、アスパラガス、腹にこたえるものとして、すばらしいがさっぱりしたローストビーフと、それに相応した酒といった具合であった。

さらに読み進めていくうちに、晩餐や食事の時、どんな料理が出されたとか、食べたとか、具体的な描写が少なくなっているのに気づいた。そして、ヴロンスキイは? アンナは? と、新たな興味が湧いてきた。

ヴロンスキイは、将校集会所の食堂と自宅でビフテキを食べただけである。アンナは、自宅に客を招待して食事をする。しかし、食事の間、やたらと上きげんであったが、アンナも客も何を食べたかの描写はない。また、自宅での宴会の時も菜葉汁(ボトヴィーニヤ)と肉汁(スープ)は用意されているが、その他の料理の描写もなく、アンナが何を食べたのかも分からない。そして、コーヒーや茶の席でも、飲んだのか、飲まなかったのか、はっきりしないが(多分、飲まなかった)、一度だけはっきりとコーヒーを飲んでいる描写がある。

 

「そのことなら、あなたは全く安心していらして大丈夫ですわ」と彼女はいい、くるりと顔を背けて、コーヒーを飲みにかかった。
彼女は小指を一本だけ離して、茶碗をとり上げ、それを口へもっていった。幾口か飲むと、アンナは男のほうをちらと見た。と、その顔の表情によって、自分の手も、身ぶりも、コーヒーを飲むときに唇で立てる音も、彼にいまわしい感じを与えているのが、まざまざとわかった。

 

また、二人は、長い間、ヨーロッパ旅行(ヴェニス、ローマ、ナポリ)をするが、その間、イタリアでの食事風景やどんな料理を食べたかの描写もない。

さらに、カレーニン、ドリイ、キチイも同様である。ほとんど何も口にしていない。キチイには、上述の如く「ドイツの保養先で黒すもも入りのスープに癒された」という描写はあるけれども……。

 

モスクワのトロリーバス

モスクワのトロリーバス

 

その他、この作品に登場する食べ物や飲み物を拾ってみた。

 

赤白葡萄酒、蜜柑入りの葡萄酒、ラインワイン、テーブル・ワイン(ニュイ、シャプリ)、ポートワイン、シェリー酒、白封のシャンパン(カシェ・プラン)、六種類のウォトカ、コーヒー、紅茶、砂糖、蜂蜜、レモン入りの氷水・ソーダ水、コニャック入りのソーダ水、クワス、牛乳、ミルク、乳、ヨーグルト、アイスクリーム、苺ジャム、梨、木苺、胡瓜、漬物(クワスを添えたキャベツ)、六種類のチーズ(パルメザンなど)、パン汁、マリー・ルイス式スープ、魚スープ、ソース、緑色の千ルーブルのソース、八十五コペイカのソース、丸パン、コッペパン、薄く切ったフランス・パン、生パン、ビスケット、薄餅(プリン)、焼いた七面鳥、イクラ、鰊、各種の缶詰類など。

 

さらに、「アテネの塩」が、気のきいた上品な洒落というのや「どうぞ、わたしのいうようにしてちょうだい」と老侯爵夫人はいった。「ジャムの上に紙をかぶせて、ラム酒でしめしておくの。そうすると、氷がなくっても、決して黴がこないから」という、電気冷蔵庫のない時代のジャムの保存法など、当時の知恵に至るまで多種多様である。

 

グム百貨店のデコレーション(赤の広場)

グム百貨店のデコレーション(赤の広場)

 

このように「アンナ・カレーニナ」を読み終えると、モスクワの先輩たちのその後のことが気になった。ところが、僥倖が訪れる。突然、中老格の駐在員が、休暇で日本へ帰って来たのだ。わたしは、彼に会うと挨拶もそこそこに、モスクワの一件を訊いて見た。

「おお、そのことか? 俺は行かなかったが、本でレストランを確認して、スケート場はともかく、動物園の場所は分かるので、ドライブを兼ねてあのあたりを探そうと出かけた連中が、『党幹部の貸し切りになっていて、入れなかった。きっとブレジネフがお忍びで生牡蠣を食いにきていたのだ』と言いながら、戻って来たよ!」

「本当ですか? ホテルもイギリス亭も見つかったのですか?」

「阿呆、そんなこと、あるわけないだろう!」

「……?!」

「お前、今でもあると思っていたのか? 阿呆だなぁ、みんな、分かっていてやったことだ。暇つぶしの座興だよ。今では商売に明け暮れているけど、学生時代は、あれでも皆一様にロシア文学を齧った連中なんだよ。たまには、こんな文学的なことをして楽しむのもいいだろうと、遊んだだけのことだ」

 

この頃の通信手段は、電報しかなく、しかも日本との時差の関係で時間的にも余裕があり、食以外にも不便なことだらけだったが、モスクワの暮らしは、今では考えられないほどのんびりとしたものであった。冬は、長い夜の時間をボリショイ劇場、モスクワ芸術座、小劇場、コンサート・ホールで過ごし、夏ともなれば、就業時間が終わり、本社に電報を出し終えた後でも、日は沈まず、長い一日となる。時には、食のことを忘れて、ロシアの作家のゆかりの家などを探索したり、銅像や墓地を巡る時間はたっぷりとあった。ただし、その気さえあればの話であるが、それができるほど時間にも心にも余裕があった優雅な時代でもあった。

 

送別会。ナショナルスタッフと

送別会。ナショナルスタッフと

 

そして、今、その時代から約半世紀が過ぎて振り返れば、この世からソ連邦が姿を消してロシアになり、ソ連・東欧の社会主義体制も崩壊して、「コメコン」という枠組みも解けてしまっている。国の体制が変わった今では、かつてのソ連や東欧諸国のどこの国に行っても、生牡蠣は食べられるだろう。そして、当時は、サービス業だけを見ても資本主義諸国より遥かに劣っていたが、今では、これらの国々のサービス業は、先輩の資本主義諸国のレベルに達しており、凌駕しているものもある。今のモスクワでは「生牡蠣が食いたい」と言って、「アンナ・カレーニア」を読んで、ありもしないレストランを探す駐在員もいないだろう。いや、それどころか、そのような発想など、頭のどこを叩いても出てくるわけがない。それでいいのだ。その必要がないのだから……。しかし、今、わたしがモスクワの街に立てば、浦島太郎ではないが、どこにいるのかさえも分からないだろう。そして、あの窮屈だったモスクワを懐かしむことだろう。

 

いずれにしても、このような形で「アンナ・カレーニア」を読んだのは、恐らく、古今東西、わたしたちだけであろう。アンナ、ヴロンスキイ、カレーニンが得たもの、失くしたもの代償の大きさに比べれば、このような読み方は邪道かもしれない。しかし、こんな馬鹿な読み方も、もう一つの「アンナ・カレーニア」の読み方としてあってもいいのではないか、と思っている。ご賛同を頂ければ、幸いである。

 

レストランのショー風景

レストランのショー風景

 

付記:実は、東欧の国、ユーゴスラビアのベオグラードでは当時でも生牡蠣を食べることができた。わたしは、70年代の前半、ブルガリアのソフィア駐在時代、この生牡蠣が食べたくて、ウィーンの会議の後、ベオグラードに立ち寄り、ベオグラード駐在員の案内で生牡蠣のあるレストランへ行った。わたしは、2ダースくらい食べたいと思っていたが、注文する前に「二人で1ダース、それ以上は駄目ですよ」と彼に釘を刺されたので、仕方なく一人分半ダースで我慢した。そして、半ダースを瞬く間に食べて、レストランを出たが、どうしても物足りなくて、彼をタクシーに乗せて、帰した後、急いでレストンへ戻り、1ダース(もっと食べたかったが、駐在員の言葉の意味が分かっていたので我慢した)の生牡蠣を食べて、空港へ向かった。ところが、飛行機がソフィア上空で着陸態勢に入った時から腹の具合がおかしくなってきた。困った、家まで持つかな、と心配になってきたが、飛行機が着陸態勢に入ったので、トイレにも行けなくなってしまった。脂汗を掻きながら、イミグレ、通関を済ませ、猛スピードで車を走らせ、何とか持ちこたえて、家のトイレに飛び込んだ。駐在員の忠告を無視した報いであり、意地汚さがなせる業でもあった。その後、三日間は腹具合も食欲も尋常ではなく苦しんだ経験がある。だから、オブロンスキイが、二十でも多いのに、三十も注文したのは異常としかいいようがない。もしかしたら、トルストイは生牡蠣を食べたことがないのでは、と疑っている。

たけのけんじ(67年露文・元商社員)

 

引用・参考資料

(*1)「ロシア文化研究」 第23号 早稲田大学ロシア文学会・2016年3月25日発行

(*2)「酔いどれ」チェーホフ作・原卓也訳(チェーホフ全集6)・中央公論社・1969年

(*3)「アンナ・カレーニナ」トルストイ作・米川正夫訳・世界文学大系37・筑摩書房・1958年

 

 

 

 

 

 

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