モスクワ留学体験記②(2015年秋~)

大学院博士課程に在籍の竹内ナターシャさんのレポートです。ご専門とするソログープのオペラについて、寄稿していただきました。一緒に送ってくれた素敵な写真とともにお届けします!

 

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オペラ『小さな悪魔』を鑑賞して    博士後期課程 竹内 ナターシャ

ロシア文学では一つの古典となっている、フョードル・ソログープの代表作『小さな悪魔』(邦訳では『小悪魔』で通っている)は、日本では誰でも知っているというわけにはいかないが、ロシアにおいては未だに――否、今だからこそアクチュアルな捉え方をされている作品のようである。大変運の良いことに、偶然新作オペラの広告を目にした私は、2015年10月14日、作曲家アレクサンドル・ジュルビンによるオペラ『小さな悪魔』を鑑賞する機会に恵まれた。これは、脚本家ワレリー・セメノフスキーが1999年に『小さな悪魔』を元に書いた戯曲『怪物』から構成され、ソログープの描いたプロットからはかなり改変されているが、基本的な出来事や登場人物の性質といったものは大幅には変えられていない。ソログープの同作は既に映画化もされており、元々決して注目度の低い作品ではないのだが、このグロテスクなオペラはロシアが誇る現代作曲家の記念公演という背景を顧みてもかなり話題を呼んでいるようだった。

初めて訪れるコンサートホールは、想像していたよりも小規模で、客席前方と舞台は極めて近く、オーケストラピットは舞台の真下という形態であり、オペラというより演劇といったほうがしっくりくる雰囲気だった。舞台は、狭苦しい箱の中のような、閉塞的な白い部屋だ。そのみすぼらしい壁には、一匹の大きなハエのオブジェが取り付けられ、開演少し前から腐臭の象徴らしい黒い塊がもぞもぞと鈍く蠢動し、その効果音という形で客席のささめきと混ざり合いながら前奏が始まる。原作にハエがぶんぶん飛び回っているという表現はないが、行き場のない田舎町の中で常に漂っているのであろう様々な「悪臭」を効果的に視覚化したものといえるだろう。ソクーロフの『ボヴァリー夫人』とも通じる陰鬱さが感じられた。

ポクロフスキー室内歌劇場にて、ソログープ『小さい悪魔』舞台挨拶

ポクロフスキー室内歌劇場にて、ソログープ『小さい悪魔』舞台挨拶

 

導入では、鞭打ちの場面が演じられ、ソログープの代表的なモチーフが示される。続いて、ペレドーノフとその同僚であるパブルーシュカとルチーロフのトリオで物語が始まる。またいとこで同居人のワルワーラと結婚すれば視学官の地位を与えるというヴォルチャンスカヤ侯爵夫人の約束について取り沙汰する三人だが、この約束は早く嫁入りを済ませたいワルワーラがでっち上げたものである。この物語において俗悪さを引き立てる要素の一つは、早く嫁入りしたい、嫁入りさせたいなどの目論見からペレドーノフに阿る人々の打算的な駆け引きであり、ルチーロフも妹たちを嫁がせようと彼を口説き落として家へと連れ帰り、美しいリュドミーラを始めとする妹達に引き合わせる。このオペラでは、三人の姉妹たちを無遠慮に、チェーホフの『三人姉妹』と結び付けている。「モスクワへ!モスクワへ!」と叫び出す彼女たちの様子には、同じように田舎にいながらも美しい生活を願うチェーホフの登場人物達とは対照的に切実さというものは皆無で、絶望的な滑稽味が付与されている。そのような奸計が企てられている一方、狡猾なワルワーラはペレドーノフを逃がさぬ為、狡猾なプレポロヴェンスカヤと共謀して、公爵夫人の手紙を捏造する。このプレポロヴェンスカヤは恐ろしくコケティッシュで、品のない媚態を示すのだが魅力的でもあり、作品全体の毒々しさを代表しているようでもあった。続いて、ペレドーノフの鞭打ちへの病的な執着が描かれる。美少年サーシャ・プィリニコフを鞭で打つために、ペレドーノフは家に押しかけて保護者に鞭で罰する必要性を力説するのだが、彼は勿論道義的な気持ちでそれを行おうとしているのではない。原作よりもはるかに強調されているのが、ペレドーノフの欲望の矛先の多さだ。原作ではルチーロフの妹達に大した関心は示さず陰気な彼が、特にリュドミーラに対して鼻の下を伸ばし、他の二人の姉妹に対しても満更でもないといった様子で、更にサーシャが少女であるという妄想に捉われるとこれでもかという程露骨に劣情を抱くという有様である。敢えて良く言うのなら、ペレドーノフは幾分情熱的な男になっている。デルジャービンの詩『神』の一節を歌い上げるなど、感性が鈍い俗物という元来のペレドーノフよりも、オペラという表現形態のためなのか、幾分か感情の豊かな存在に映るのだ。最後の場面ではソログープの代表的な詩「子供だけが生きている、我々は死んでいる……」を痛切に歌う箇所さえあり、ソログープ自身はペレドーノフのモデルが自分であるという指摘には異を唱えたが、ここでは彼の思想が幾らか引き継がれているといってよいだろう。

 

秋のノヴォデヴィチ墓地

秋のノヴォデヴィチ墓地

 

また、このオペラでは、原作では然して目立つ存在ではない監督官なども重要な働きをする。その他の人物が、時にはペレドーノフ以上の俗物として描かれている。例えば監督官は、サーシャを愛しているリュドミーラを力ずくでものにして、自分と結婚せざるを得ない状況に追い込むのである。待っている結末は残酷だが、美しいサーシャとリュドミーラは、俗悪なこの世から切り離されたように美に陶酔し、その場面は終始グロテスクなこの作品の中では心休まる貴重な瞬間でもある。だが、目にも耳にも快い美しさでありながら、美への献身と性的な目覚めの微妙なバランスによる危うさは的確に表現されていた。この二人と、欲望にまみれたペレドーノフとワルワーラの攻撃的な遣り取りとが対照的に演じられるのは原作の通りだが、音楽は常に強迫的な響きを持っており、誰一人として浸食する狂気から逃れられないのだと語っているようだった。

印象的なのは、結婚式の場面だ。ペレドーノフとワルワーラの結婚を、誰も心の底から祝福などしていないのだが、誰もが愛想笑いを浮かべ、口では調子の良いおべっかを連ねている。町の重役もやってくるのだが、彼は露骨な人種差別主義者で、ユダヤ人の楽団に嫌味を言い、やはり俗物として振る舞う。結婚式は次第に恥知らずの宴へと転じ、彼らはサーシャに、リュドミーラに、ユダヤ人に、先祖に、子孫に、次々と唾を吐きかける。古きものと新しきもの全てを唾棄し、永遠性を踏みにじったところで前半が終わる。

後半は、結婚したというのに手紙が来るだけで一向に視学官になれないまま学校から去るように命じられるペレドーノフの懊悩と、狂気の象徴となってそこら中を走り回るネドトゥイコムカに対する恐怖が主に描かれ、ペレドーノフだけでなくあらゆる人間が際限なく狂い始め、いよいよ物語のクライマックスである仮装舞踏会へと舞台は収束する。リュドミーラに別れを告げられたサーシャ自身は役目を終えて最早登場しないが(原作では「芸者」に扮して注目を集める)、ペレドーノフの狂気の世界にその姿は留められている――ゴーゴリの『検察官』のようにお忍びで町にやってきているに違いないヴォルチャンスカヤ公爵夫人として現れ、ペレドーノフに熱烈な愛を語るのだ。人々は意志のない操り人形そのものの如くグロテスクに動き回り、ペレドーノフの狂乱は留まる所を知らず、ついに公爵夫人の手紙は偽物であるということを暴き立てるパブルーシュカを刺し殺し、平然と本来の自分の仕事「国語の授業」を始める。おぞましい余韻を残して、まさに悪夢が終わるのである。

 

ヤロスラブリにて、教会内の壁画

ヤロスラブリにて、教会内の壁画

 

客席の反応は熱狂的で、ソログープ自身が戯曲化したものではないとはいえ(ソログープ自身の手による脚本も存在する)、作曲家自らが記しているように「このオペラには愛もなく、明るい感情もなく、人物は全てネガティブに描かれている」陰惨な『小さい悪魔』が、作品の本質を捉えた音楽と演出によって彩られ、その悪夢が人々を魅了しているのかと思うと驚嘆すべきものがある。楽曲、演奏、演出、歌手などあらゆる要素のレベルが非常に高かったのは勿論だが、それらが陰鬱な『小さな悪魔』という作品の為に結集されたという事実には、この作品のアクチュアリティーの問題が関わっているようだ。

作曲家А. ジュルビンは、19歳の時には既にオペラ化を計画していたそうだが、先述したようにあまりに救いのない作品である為、恐るべき登場人物たちとそれだけの期間共存するのは困難であったという。では、なぜそのような人々を舞台に引っ張り出さねばならなかったのか?ジュルビンは、『小さい悪魔』は、ロシアの生の鏡だという。国家の枠組みや性的な価値観の変化が続いた今日でも、彼らは生きており、舞台に上げて人々に見せるに値するのだとシンプルに答えている。

演出家のГ. イサーキヤンは、率直に小説『小さい悪魔』が好きではないと言い切っている。本来人々が恥じ入って隠す事物が開けっ広げになっているせいで受け入れ難いものがあるのだと語り、原作については言葉少なである。彼自身にとって、あまり語りたくない悍ましさを感じているのかも知れない。

本家、すなわち直接オペラの元となった『怪物』を書いたВ. セメノフスキーは、銀の時代の文学者たちが評した恐るべき俗悪さの具現化としての「ペレドノフシチナ」が最早長い年月でそのアクチュアリティーが薄れたとする見方に理解を示しながらも、ソログープの目は決して時代に捉われていた訳ではないことを指摘する。「ペレドノフシチナ」は変形し続けながら存在しているのだ。ペレドーノフの性格が小説と幾分異なる風に書かれているのは、時代の変化を考慮してのことなのかも知れない。オペラのペレドーノフは、敗北こそするがペレドノフシチナと戦っている。「自分は最後の詩人だ」とまで言い切るのだが、結局は価値あるものを無為に貶める人間であり続ける。彼の狂気は周囲にも広がり、誰一人自省することも責任を持つこともなく、永遠性に唾を吐きかけるのである。

斬新な演出で知られるゲリコン・オペラの『ホフマン物語』

斬新な演出で知られるゲリコン・オペラの『ホフマン物語』

 

この他、作家ヴィクトル・エロフェーエフの『小さな悪魔』論などもパンフレットには掲載され、舞台もさることながら細部に拘り抜き、観客に思考を促す公演であった。昔日の現象として扱われつつある「ペレドノフシチナ」と今一度向き合う『小さな悪魔』再考に挑戦しながらも、舞台芸術としての非常に鮮烈なインパクトを与える魅力的なオペラの観客の一人となることが叶い、心から満足することが出来た。

氷でツルツルのミスニツカヤ通り

氷でツルツルのミスニツカヤ通り

 

モスクワ大学、真冬のロモノーソフ像

モスクワ大学、真冬のロモノーソフ像

 

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