ハバロフスク紀行-抑留の記憶を辿る旅

露文教員の坂庭です。今回は、1年ロシア語クラスの柴田賢さんが、夏に訪れたハバロフスクについてレポートを書いてくれましたので掲載します。味わい深い旅行記になっています。

ハバロフスクⅠ駅前 Хабаровск-1

はじめに-「ハバロフスク小唄」と極東ロシアの中心地

ハバロフスク ラララ ハバロフスク
ラララ ハバロフスク
河の流れは ウスリー江
あの山もこの谷も 故郷を
想い出させる その姿

ハバロフスク小唄 作詞:野村俊夫 作曲:島田逸平

「ハバロフスク小唄」とは、終戦時ソ連によって満州等から移送され労働力として利用(所謂シベリア抑留)された日本国籍者の間で歌われた望郷の歌である。抑留経験者と共に日本へ持ち込まれ、シベリア抑留の記憶を語り継ぐ軍歌として知られている。

ハバロフスクは、ウラジオストクからモスクワへと至るシベリア鉄道の駅がある交通の要衝であり、現在ではロシアの8つの「連邦管区」中で最も東に位置する極東連邦管区の本部が置かれる極東ロシアの中心地である。戦後に関していえば、旧日本軍に対する軍事裁判であるハバロフスク裁判の拠点であった。ハバロフスクにはシベリア抑留の関連地として「日本人墓地」「平和慰霊公苑」「抑留者が建てた建造物」などがある。それらを見るべく、成田から二時間半という驚くほど短いフライトでハバロフスクへ向かった(確かにフライトは短いのだが、チェックインしてからやたらと待たされるなど対応は大陸式だった)。

極東ロシアの朝

この街に着いて二日目になる朝、ソ連時代のやたらと頑丈なホテルで目覚めると、外は予報通りの小雨らしかった。昨晩空港からホテルへ向かう途中で見たハバロフスク一の緑地ディナモ公園と今でもレーニン像がひっそりと立つレーニン広場は、橙色の街灯と色とりどりのネオンが濡れた地上に反射していて綺麗だった。

散策初日から雨なんてついていないけれど、小雨降る繁華街ムラヴィヨフ・アムールスキー通り(誰一人傘を差していない)を歩いてみたら、これもロシアらしくていいのかな、と思えた。旧ソ連圏を数回しか訪れた事のない者が賢しら口をきくようだが、ロシアという土地は人の心を少しだけ寛大にしてくれる気がする。ロシアでは何かにつけて何の説明も無くやたらと待たされ、博物館が突然休館になり、バスの運行もルーズだったりする。数時間でもロシアにいればさすがの日本人もこの国の浸透圧に慣れてきて、「またか」と思うものだろう。日本では遅刻や失敗には必ず何らかの理由説明が求められ、しばしばそれらをでっち上げる必要すら出てくる。そういう土壌に育つと、ぎすぎすした柔軟性に乏しい性がどうしても心に根を張ってしまう。また利いた風な口をきくけれども、日本人旅行者としてロシアに行くことは、本来の人間としての寛容さや寡欲さを少しの間だけ取り戻すことなのではないかと考える時がある。ハバロフスクはまさにそういう旅に最適な場所だった。街は狭く見所は確かに少ない。デパートの品揃えもいまいちだ。観光客として訪れるべき場所は博物館と教会くらいのもので、そういうものは一日あれば全て廻れるだろう。しかし僕は「観光名所」を廻りつくした後に、「寛大さのレンズ」を通してこの街を見ることで、シラカンバの茂る極東ロシアの夏、三つの丘に沿って作られた道路、おんぼろトラムが最大動力を使って駆け登る急勾配の、なんとも表現しがたい趣を初めて発見することになる。

ガスプロムの目映い光

日本人墓地と平和慰霊公苑
ハバロフスクの目抜き通りムラヴィヨフ・アムールスキー通りからトロリーバスに乗り、北方の郊外へ向かう(余談になるけれど、トロリーバスに乗ると旧ソ連に来た感じがする)。目的地の日本人墓地は広大なロシア人墓地の中に組み込まれている。日本の墓地は石そのものと言えそうだが、ロシアの墓地は森である。あまりに広大すぎる上に何の目印もないので、日本人墓地を探すのには苦労した。僕はシベリアシマリスの駆け回る森の中をひたすら歩き、ようやく黒い鉄柵に囲まれひっそりと佇む日本人の墓地群を見つけた。この場所には約300名の日本人の墓があり、その横に慰霊碑と卒塔婆が立っている。無計画に一人でここまでやってきた訳だから、実際墓に辿り着けばどうして良いのか分からない。慰霊碑の前に立っていると大陸の巨大な蚊が足に纏わりついてきて、それを追い払いながら線香を上げ、中央アジア系らしい顔立ちの墓守に挨拶をし、僕は中心街へ再び戻った。

ハバロフスク滞在3日目、前日までの雨が止みよく晴れたので「平和慰霊公苑」へ行くことにした。駅前バスターミナルで数十分待っても乗りたい路線バスが来なかったので、数名のロシア人に「6番バスを知らないか」と聞いたところ、皆口を揃えて「ここで待て」と言う(いよいよロシアへ来たという感触があった)。しばらくすると本当に6番バスはその場所へ来たので、大勢のロシア人と共に乗り込む。車中「ここで降りたい」と車掌に言って目的のバス停で無事に降ろしてもらったのだが、周辺は荒野と道路しかなく、慰霊公苑の方角など見当もつかない。地図を見て棒になっていると乗客のおばさんが近づいてきて、「どこへいきたいの?」と聞いてきた。慰霊公苑へ行きたい旨を伝えると丁寧に道案内をし、僕の肩を叩いて笑顔で去っていった。

おわりに

ハバロフスクは予想より美しく、緑の多い街だった。この街の施設において、かつてのソ連の面影を感じられるのは中央市場の存在くらいのものだろう。街には西欧のアパレル、日本車、韓国製家電、セルフ式スーパーが溢れ、実に現代的な生活が営まれていた。「シベリア抑留」という単語を耳にした際われわれ日本人の心に喚起されるイメージ、「おどろおどろしい荒野」に象徴される海の果ての大地を、この街を訪れただけで目にすることはもはや不可能なのだろう。したがって、この文章は「感想文」的な役割を果たすに留まるし、シベリア抑留に関する検証的な意義を持つことはありえない。けれども、ロシア語を学ぶある旅行者の道中記として、ウラジオストクAPEC開催前夜の極東の様子をただ記録しておきたいと思った。

街の象徴 アムール川

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